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100年先も一番に
選ばれる会社へ、「決断」を。
【インタビュー】

100年経営対談

注目企業のトップや有識者と、タナベコンサルティンググループ タナベ経営の社長・若松孝彦が「100年経営」をテーマに対談。未来へ向けた企業の在るべき姿を描きます。
インタビュー2015.11.30

世の中の役に立ち、喜んでもらえる会社が、100年続く企業となる:
大和ハウス工業 樋口 武男 氏 × タナベ経営 若松 孝彦

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『パイプハウス』やプレハブ住宅の原点となった『ミゼットハウス』を開発し、「建築の工業化」の先駆者となった大和ハウス工業は2015年、創業60周年を迎えた。
代表取締役会長・CEOの樋口武男氏は、創業100周年に売上高10兆円を達成すべく、新たな事業価値の創出に余念がない。
未来へ向けた会社の在り方とリーダーの心構えを聞いた。

創業者に教え込まれた「社会の公器」の会社

若松 大和ハウス工業は、故石橋信夫氏が「建築の工業化」を企業理念として1955 年に創業。プレハブ住宅の原点となった『ミゼットハウス』を世に送り出すなど、常に日本の住宅業界をけん引してきました。さらに、商業建築やリゾートホテルなど多角的な事業展開を推進し、現在では166社を擁する大和ハウスグループを形成。創業100周年となる2055 年には、グループ売上高10兆円を目指していらっしゃいます。

樋口 2015年は創業60周年で、グループ売上高は2.8兆円(2015年3月期、連結)。まだ、創業者の石橋信夫から託された「創業100周年に売上高10兆円の企業グループ」という目標の3分の1 にも達していません。創業100周年には私は117歳になります。そこまで生きる自信はさすがにない(笑)。できることなら前倒しして、10兆円を達成してもらいたいですね。
若松 石橋氏との出会いや、社長に就任された経緯などを教えてください。

樋口 20 歳の時にサラリーマンのままで人生を終わらせないと決意しました。自分で会社を興し、上場して社長、会長として終生働こうと。大学を卒業して鉄鋼商社に就職したのは、実学を勉強しようと思ったから。しかし、ぬるま湯的な環境に幻滅し、「このままではあかん」と転職先を探しました。当時、週刊誌で「モーレツ会社」「不夜城」などと書かれていた大和ハウス工業を知り、「ここしかない」と直感。歩合制セールスの面接に行き、「私は結婚しており子どもも生まれるから、正社員として採用してほしい」と頼み込みました(笑)。
 こうして大和ハウス工業の社員になり、創業者の石橋オーナーと出会ったわけです。現在の私があるのは、石橋オーナーとの出会いがあったから。石橋オーナーが会社のトップでなかったら、私はとうの昔にクビになっていたでしょう。

若松 石橋氏との出会いは運命的だったのですね。人生ドラマは「遺伝、偶然、環境、意志の産物」ともいわれますが、まさにその言葉の通りであると感じます。

樋口 本社で全国の資材購買を担当していたとき、当時社長であった石橋オーナーに呼び出され、釣書を見せられました。「私はもう結婚しています」と言うと、「そうか」との返事。その後もまた呼び出されて釣書を見せられたので、「前にも言いましたが、私には子どももいます」と答えると「そうやったな」と笑っていました。その頃から、石橋オーナーに父親のような尊敬と親しみを感じるようになりました。他の社員は「本社には怖い社長がいるから、できるだけ地方勤務をしたい」と言うほど恐れていましたが、私は本社勤務がよかった。石橋オーナーは、筋の通った話ならしっかり聞いてくれると確信していました。
 私は決してごまをすらないため、損をしたこともたくさんあります。それでも自分の信念をずっと貫くことができたのは、石橋相談役が会社のオーナーだったからです。

若松 樋口会長はオーナーではありませんが、強烈なオーナーシップを感じます。私は経営コンサルタントの立場から、企業組織には、オーナーシップが不可欠と提言しています。企業規模が大きくなると、「城はわが身の精神」がだんだん薄れる傾向にありますね。大和ハウスグループを経営する中で、オーナーシップとどのように向き合っておられるのですか。
樋口 グループ全体の社員数が3 万人くらいで売上高が1 兆円を超えたころ、石橋オーナーが「社員が3 万人もいる会社は、社会の公器や。社員の後ろには家族がいる。協力会社にも社員とその家族がいる。皆を路頭に迷わすことは断じてできん」とおっしゃいました。その言葉が今でもすごく好きですね。石橋オーナーは戦地で負傷して2年近く療養生活を送り、帰国を勧められたにもかかわらず、部下のいる部隊に戻ろうとしたが、他地域に転出していたため別の部隊に復帰。その後、ソ連兵につかまり、シベリアに抑留されました。その気概は終生変わらず、仕事に対する情熱と、部下とその家族に対する想いには、いつも圧倒されました。2003 年に81 歳で亡くなられたとき、一代で1兆円企業を築いたのに、資産は自宅と自社株だけ。社会の公器としての企業育成、「人財」育成に徹した人でした。
  私は46 歳から役員になり、大和団地社長としての8年間など、通算すると役員を31年間務めています。その間、多くの企業トップと会ってきましたが、手前みそではなく「石橋オーナーよりすごい」と思う経営者には会えていない。だから、自分はとても幸せだと思います。

大和ハウス工業株式会社 代表取締役会長・CEO 樋口 武男(ひぐち たけお)氏 1938年兵庫県出身。関西学院大学法学部卒業後、鉄鋼商社に入社するも事業家を目指し、厳しい修業を求めて63年大和ハウス工業に転職。常務、専務などを経て、93年多額の有利子負債に苦しむ関連会社の大和団地社長に就任。マンツーマンの対話から現場に「やる気」をみなぎらせ、2年目で黒字化、7年後には復配へと再建させる。2001年4月大和ハウス工業と大和団地の合併を機に社長就任。就任後は、大企業病の克服に注力し、バブル時代の負の遺産をすべて処理するために一時的に赤字へ転落するも、その後V字回復を果たし、同社を業界トップメーカーの地位に導く。04年4月代表取締役会長兼CEOに就任。著書に、人生の師と仰いできた創業者石橋氏への感謝の気持ちと二人で歩んだ日々が綴られている『熱湯経営「大組織病」に勝つ』や、『先の先を読め 複眼経営者「石橋信夫」という生き方』、『私の履歴書「凡事を極める」』など。

大和ハウス工業株式会社 代表取締役会長・CEO 樋口 武男(ひぐち たけお)氏
1938年兵庫県出身。関西学院大学法学部卒業後、鉄鋼商社に入社するも事業家を目指し、厳しい修業を求めて63年大和ハウス工業に転職。常務、専務などを経て、93年多額の有利子負債に苦しむ関連会社の大和団地社長に就任。マンツーマンの対話から現場に「やる気」をみなぎらせ、2年目で黒字化、7年後には復配へと再建させる。2001年4月大和ハウス工業と大和団地の合併を機に社長就任。就任後は、大企業病の克服に注力し、バブル時代の負の遺産をすべて処理するために一時的に赤字へ転落するも、その後V字回復を果たし、同社を業界トップメーカーの地位に導く。04年4月代表取締役会長兼CEOに就任。著書に、人生の師と仰いできた創業者石橋氏への感謝の気持ちと二人で歩んだ日々が綴られている『熱湯経営「大組織病」に勝つ』や、『先の先を読め 複眼経営者「石橋信夫」という生き方』、『私の履歴書「凡事を極める」』など。

 

どんな事業が、どんな商品が、世の中の多くの人の役に立ち、喜んでいただけるかをベースに考えるべき。私はそれを忠実に行っているだけです。樋口 武男氏

 

理念に合った変化を促し基軸となる人財を育てる

若松 石橋氏は「世の中に必要とされるものを事業にする」と宣言されました。大和ハウス工業の事業の原点は、そこにあると感じます。

樋口 「何をしたら儲かるか」という発想では駄目です。どんな事業が、どんな商品が、世の中の多くの人の役に立ち、喜んでいただけるかをベースに考えて事を興すべき。私はそれを忠実に行っているだけです。

若松 事業の原点は「世の中のためになる」ということですが、これだけ大きな規模の企業グループですから、事業構造も成長に伴って変革されてきたわけですね。

樋口 世の中は変わる。人の生活も変わる。だったら、一歩先の変化を先取りするような経営をしていくべきです。当社の場合、変化の方向性が「世の中の人の役に立ち、喜んでもらえる」というキーワードに適合しているかどうかを吟味することが私の使命です。

若松 事業の軸足となる「本業」と、変化としての「多角化」を、どのように関連付けてこられたのですか。

樋口 どんなに会社が大きくなろうとも、事業が変わっていこうとも、基軸になるのは人。人を育てないと、会社に未来はありません。サステナブルな成長を目指し、幹部となる人財を育成しよう
と努めています。

若松 それが「大和ハウス塾」ですね。

樋口 そうです。講師は外部から起用し、私は中間発表と最終発表を聞いて講評します。最終発表の前に参加者全員と面談し、「この人財は」と思った人物にはポジションとチャンスを与えています。私も石橋オーナーからのテストを何度も受けました。大和団地の再建は最終テストだったと思っています。1993 年、大和ハウス工業の専務を務めていたときに石橋オーナーに呼ばれ、「大和団地がこんな状態やねん」と打ち明けられました。そして「この会社は私がつくり、一部上場にまでさせた。つぶすわけにはいかん。再建に当たってくれ」と頼まれましたが、新聞でも“ 泥舟” と書かれた会社。「そんな力はありません」とお断りしたら、ものすごい剣幕で怒られました。石橋オーナーに本気で怒られたのはそれ1 回きりです。
若松 大和団地の社長に就任し、現場に「やる気」をみなぎらせて、2 年目で黒字化、7 年後には復配を達成し、見事に再建されました。

樋口 石橋オーナーの言葉に「勘は先で、理論は後」があります。現場を踏んできた人間の勘を重視するという、現場主義者の石橋オーナーらしい考えです。私もそれに忠実に従いました。当時
のスローガンは「サナギからスタート」。SANAGIのS(スピーディに)、A(明るく)、N(逃げず)、A(あきらめず)、G(ごまかさず)、I(言い訳せず)をキーワードに、徹底した現場主義を貫くことで、なんとか最終テストに合格することができました(笑)。

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