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【特集】

ステージアップサイクル

若手経営者や新興企業は、さまざまな「成長の壁」とぶち当たる。難壁を突破する上で必要なことは何か。ミッション・ビジョン、ブランディング、メンタルモチベーションなどの機能に着目し、ビジネスを成長へと導く「ステージアップサイクル」を考える。
2019.10.31

徹底した”沖縄ブランド”づくりで
「沖縄の価値」を全国に発信:ゆいまーる沖縄

 

 

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2018年度、6年連続で過去最高の入域観光客数を更新した沖縄県。その一方、県内企業は本土の大手資本との厳しい競争にさらされ、経営体力が問われている。そんな中、沖縄の工芸品・食品の企画プロデュースで成長を続けているのが、ゆいまーる沖縄だ。

 

〝琉球の自立〟をベースに新たな価値を提案

 

ダイナミックな色遣いの琉球ガラスや、コバルトブルーの唐草模様があしらわれた焼き物。伝統工芸品の卸・販売を手掛けるゆいまーる沖縄の店舗には、沖縄の手仕事で生み出された工芸品などを中心に、「琉球・沖縄でつくられたもの」、「企画・デザインされたもの」が並ぶ。

 

同社は1988年に創業。創業者の故・玉城幹男氏が、集団就職先の東京で沖縄出身者に対する差別と直面したことをきっかけに、琉球文化にこだわり沖縄で作られたものを流通させることで、沖縄の経済的な発展を実現しようと志したのが出発点だ。経営目的の一つである「琉球の自立を目指す」には、玉城氏の思いが込められている。

 

「表向きは明るい観光地ですが、沖縄には400年以上もの間、侵略されたり戦地となったりした歴史があります」。そう話すのは、ゆいまーる沖縄の代表取締役社長・鈴木修司氏だ。

 

沖縄では壮絶な歴史の中、伝統工芸や芸能、食に加えて自然崇拝、祖先崇拝といった精神文化が、今日まで伝えられてきた。伝統文化が消えゆきそうになっている今、それらを守り、育み、広めるため、取り扱う商品は沖縄で生まれたものにこだわっている。

 

さらに、土産として買われる品だけではなく、日常生活で使ってもらう品となることを狙って、デザイン性や質の高いものを厳選。商品が人々の生活に身近になれば、沖縄の手仕事が長く愛されていくとの考えからだ。

 

「沖縄ブーム」が生んだ〝オモテ〟と〝ウラ〟

 

鈴木氏は、いわゆる“ ウチナーンチュ”(沖縄の人)ではない。千葉県出身である。鈴木氏が沖縄と出合ったのは1995年のことだった。当時、鈴木氏はアーティストを志し、特徴的な文化が色濃く残る地域で美術を学びたいと美術系大学への進学を目指していた。

 

沖縄県にある芸術大学の受験で沖縄を訪れた鈴木氏は、現地の独特の雰囲気に惹かれてアパートを借り、そのまま滞在。そして1997年、進学はうまくいかなかったものの、本格的に沖縄移住を決意した。その時、目に留まったのが、ゆいまーる沖縄が出していたアルバイト募集の雑誌広告だった。

 

当時の同社は、玉城氏をはじめ十数名で沖縄物産の卸・小売を展開し、創業から約10年の伸び盛りの会社だった。1999年にアルバイトで入社した鈴木氏は、接客や営業の仕事に夢中になり、1年後には正社員となった。そして2年後の法人化と同時に取締役に抜擢された。

 

折しも2000年から数年間は、全国的に“ 沖縄ブーム” が巻き起こっていた。沖縄サミット(名護市、2000年7月21~23日)の開催、守礼門が描かれた2000円紙幣の発行、NHK朝の連続テレビ小説『ちゅらさん』の放映(2001年4~9月)といった影響も相まって、沖縄が一気に全国区となった。

 

しかし、ブームは一気に上がれば一気に落ちるものである。同社も東京に3店舗を出店したが、ブームの終息と同時に売り上げがみるみる落ちてしまい、2005年に全店撤退を決意した。

「“ 沖縄” と名前が付くものなら、何でも売れる時代でした。業界全体がブームに踊らされていた。つまり、真の実力で売れたわけじゃなかったんです」と鈴木氏は振り返る。

メーカーや小売など他社の倒産が相次ぐ中、鈴木氏は20歳代後半で早くも苦境に立たされた。売掛金を回収するため何度も取引先に出向き、けんかの末に脅かされたこともあったそうだ。

 

その頃、創業者の玉城氏は重病を抱えており、毎週の役員会は病室に集まって行っていた。闘病の末、玉城氏は2007年にこの世を去った。ほどなくして、31歳の鈴木氏が代表取締役に就任。

「腹はくくりましたが、まったく先行き不透明のままの船出でしたね」(鈴木氏)

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