Vol.61 狙う「あなた」のリアリティー
北村 森
2020年10月号
トネ製作所「ときここち」
販売価格は4290円(税込み)。シンプルな形状ながら、白身を切れやすくしたり、握力の弱い方でも握りやすくしたり、工夫が凝らされている
シンプルな話でいい
消費者向けの商品を開発する上でよくいわれるのは、「ターゲットを明確にせよ」という話です。
狙う消費者層を絞るために、年代・性別・世帯所得・家族構成などを想定すべきというわけですが、正直なところ「もっとシンプルに考えていいのでは」と私は思っています。このような手法で訴求したい消費者を細かく区分しながら想定していく作業そのものが、少々古びた考え方ではないかとすら感じます。
もうここは、ずっと単純でいい。「どんな『あなた』を狙うのか」。これに尽きると思います。むしろその方が、商品開発過程でリアリティーがより出るでしょうし、ぶれることも迷うこともない気がするのです。
過去にこの連載で取り上げた商品にも事例があります。例えば、魚を楽にさばける刃物である「サカナイフ」は、「魚をさばきたいけれど苦手意識のある『あなた』に」と狙いを単純明快に定めて大ヒットしました(本誌2019年8月号)。あまたのマーケティング理論に忠実になるばかりが正解とは限らないというわけです。
で、今回の商品です。狙いどころは本当にごくごくシンプル。「卵白が苦手な『あなた』」、それがこの商品の狙う消費者層です。
町工場の「心の支え」
いったいどんな商品か。それがですね、生卵を溶きほぐす目的だけに使えるキッチン小物なのです。なのに値段は4290円(税込み)もする。こんな商品が売れているのかといえば、売れているのです。発売直後である2019年の夏、東京都内の百貨店で催事に出店したら、わずか6日間の期間だったのに315本がさばけたそうです。そして2020年に入ってもさらに伸びを見せている。
商品名は「ときここち」といいます。作ったのは東京・荒川区のトネ製作所です。
1961年創業である同社は、もともと精密板金加工を得意領域としている町工場。例えば、JR東日本の北陸新幹線の車両の扉を吊っている金具や、駅のホームにある防護柵の機構部分などを手掛けてきました。代表取締役の利根通氏は笑います。「要するに、うちの製品は『見えないところに付いている』」
そんな同社が、初めて消費者の目に見える自社ブランド商品作りに挑みました。それはなぜ?
「どんな時代の波に襲われても、その存在が会社にとって心の支えになるから」(利根氏)。その思い、分かりますね。たとえ売り上げ比率は小さくとも、自社ブランド商品の存在は大きいものとなるということです。事業を存続させていく上でのよりどころにもなり得ます。
同社は10年ほど前までは年間の売上高が10億円になることもあったそうですが、その後は年々減少。2019年は3億円強でした。そういった状況下で、思い切って自社ブランド第1号を世に出したということです。